◎手造りビール工房クラフトビア・ムーンライトは、川崎市名産品ブルワリーです。

手造りビールが楽しめるブルーパブ・ムーンライト

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ムーンライトビール銘柄ゆかりの名所 歴史探訪シリーズ

ムーンライトビールの銘柄は、川崎市多摩区の歴史や名所に由来しています。
その慣れ親しんできた地名の来歴を探訪してみましょう。

No.1 津久井道

津久井道

多摩水道橋登戸側からみた多摩水道橋津久井道(つくいどう、つくいみち)は、三軒茶屋を基点として、登戸から生田、万福寺、柿生、鶴川、さらに鶴見川の上流に沿って西へ進み、相模原市の橋本から津久井地方へと通じる道です。

五街道のひとつである甲州街道の脇街道的な道でもありますが、東海道やその脇街道として整備された中原街道、大山街道のように制度的につくられた道ではなく、人々の生活に根づいて活況を呈した商業路だったようです。

津久井道が活気を見せるようになったのは、江戸末期、文化文政 (1804~1830)の頃でした。このころ、津久井・愛甲地方で生産される絹が、この道を経由して江戸へ送られるようになったのです。それまでは、この周辺の八王子の市場で取引されていたのですが、同じく絹の産地である八王子の勢力が強く、津久井や愛甲の絹は安値で買いたたかれていました。そこで、津久井、愛甲地区の人たちは、この道を介して直接江戸に絹を出荷するようになり、津久井道が「シルクロード」として賑わうようになったのです。

禅寺丸柿禅寺丸柿津久井道の繁栄は、地域の活性化ももたらしました。もともと津久井道は、川崎特産の禅寺丸柿や黒川炭などの特産品を、江戸へ出荷するために使われていたのですが、津久井道が絹の道として繁栄するに伴い、これらの特産品の取引も増え、当時の農家の生活を支えることになったのです。『新編武蔵風土記稿』都筑郡の項には、禅寺丸柿について「柿、禅寺丸ト称シテ王禅寺村ヨリ出ルモノヲ尤ヨシトス今ハソコニモカギラズオシナベテ此辺ヲ産トス、村民江戸ヘ運ビテ余業トセリ、其ノ実ノ味スグレテ美ナリ」、黒川炭は「産物黒川炭 村民農業ノ暇ニハ毎年九月ヨリ焼始テ三月ヲ限トセリ黒川炭ト唱ヘテ焼コトハ当郡又ハ多磨郡ニモアリ当村(黒川村)其モトナルヘシ」とあり、当時の繁栄をしのぶことができます。

現在の津久井道現在の津久井道そして津久井道は現在も、東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線にその名を残し、地域の暮らしや経済を支える主要な道として機能しています。また、登戸周辺の旧津久井道には、文政10年に建てられた「北向地蔵」や、二ヶ領用水に架かる「小泉橋」等、当時を偲ぶ遺跡を数多く見ることができます。


Moonlightの「津久井道」
津久井道(つくいどう)は、ビールの代表的存在である「Pilser(ピルスナー)」です。 気持ち良い爽やかなアロマに苦みを強化しています。

No.2 稲毛三郎

稲毛三郎

薬師堂重成建立と伝えられる薬師堂
稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)は平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将で、桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族です。はじめは小山田(おやまだ)重成を名乗り父の有重とともに都の平家に仕えていましたが、治承4年(1180)10月、畠山重忠ら秩父一族と共に頼朝に帰伏し、頼朝の妻である北条政子の妹綾子を妻に迎え、御家人となりました。そして、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称しました。

その後重成は、平家追討軍の主要な武将として活躍します。養和元年(1181)、 寿永3年(1184年)の木曾義仲追討、続く 一ノ谷の戦いでは源範頼の軍に加わり、文治5年(1189)奥州藤原氏追討軍に参加数々の武勲を打ち立てます。そして建久元年(1190年)の頼朝上洛に供奉し、稲毛氏の名は頼朝の御家人の一人として、京の都にも知られるようになったのです。

建久6年(1195年)、美濃国(岐阜県)で妻危篤の急報を得た重成は、将軍頼朝から名馬「三日黒」を拝領し、急ぎ館に戻りますが、必死の看病のかいもなく、妻は帰らぬ人となりました。出家して法名を道全と名乗った重成は稲毛入道、小沢入道と呼ばれていましたが、建久9年(1198)亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した頼朝が帰りの道中で落馬し、それが元で死去します。落馬による頼朝の死は、その後の重成の運命を暗示するような出来事でした。

頼朝死後7年後の元久2年(1205)6月、同族の畠山重忠が北条時政の謀略によって滅ぼされるという事件が起こります。人望の厚かった重忠の誅殺は、他の御家人の疑心暗鬼を呼び、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したといううわさが流れます。そして重成は、弟の榛谷重朝や子の小沢重政とともに、北条氏の対抗勢力である三浦氏によって、謀殺されてしまいました。

重成が愛し育てた稲毛荘も、他の武士の手に渡ってしまいましたが、重成の災禍を恐れて京に隠れ住んでいた、源師季(綾小路師季)と重成の娘の間に生まれた2歳の姫を哀れんだ北条政子が、姫を自身の猶子として、重成の遺領の一部である武蔵国小沢郷を与えました。

重成と妻綾子の墓重成と妻綾子の墓(広福寺)平家追討と鎌倉政権の樹立に大きな力を果たしながらも、謀略に巻き込まれ悲惨な死を遂げた稲毛三郎重成は、その館跡と伝わる広福寺の墓所で、今も彼の愛した妻とともに、静かに眠っています。
また、スーパー「いなげや」の名は、創業者である猿渡浪蔵(稲城村の農家の子。立川で大八車による塩干物の引き売りを始めた)が、三郎重成にちなんで「稲毛屋」と名付けたものです。

Moonlightの「稲毛三郎」
アルコール度数の高い濃厚なイギリススタイル。イギリスでは昔からポピュラーなストロングエイルです。

No.3 小沢城跡

小沢城跡

小沢城跡のある丘陵小沢城跡のある丘陵を望む
川崎市の西北端、稲城市の市境を接する丘陵上に小沢城跡はあります。『新編武蔵風土記稿』には、「村の二市の方にあたれる山なり。このところを小沢峯と呼ぶ。この峯の地先多磨郡矢野口につづきたり。」と記録され、当初は稲毛三郎重成の居城として、重成出家後はその子である小沢小太郎重政の居城であったと伝えられています。また、「天神山城」の別名もあり、北側の麓には、穴沢天神社が祀られています。

この地は、鎌倉道が通る交通の要衝で、多摩川の広い低地や河原をひかえていたため、重要な軍事拠点として活用されていました。そのため、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台になっています。鎌倉時代の合戦記録は残っていませんが、 南北朝時代に入ると、観応2年(北朝の年号)・正平6年(南朝の年号)(1351)に足利基氏が、小沢城に立て籠もった足利直義の軍勢を攻めた戦いがありました。

戦国時代に入ると、北条早雲らが山内上杉顕定を破った合戦など、後北条氏と上杉氏との勢力争いの接点となっていました。また、享禄3年(1530)には、武蔵最大の支配力を持つ上杉朝興に対し、後北条氏の軍勢は小沢城に陣を張って、これを迎え撃ち撃破しました。これが北条氏康の初陣で、世にいう小沢原合戦です。

城跡は、多摩川の浸食によりほぼ直線的に侵食崖が続く尾根の先端にあり、天然の要害を形づくっています。周辺には「城」「城下(しろした)」「おきの鍛治屋(かじや)」などの地名も残っていることから、この地域に城郭が営まれていたことが偲ばれますが、山頂から順に削平されている築城形態からみて、鎌倉初期ではなく、南北朝から室町初期にかけての築城であるとする説もあります。

遺構が残る小沢城跡遺構が残る小沢城跡城跡には、空堀や物見櫓(やぐら)、土塁、馬場、古井戸などと思われる城の遺構が残り小沢城が居館・居城であった頃のなごりを今に伝えています。




Moonlightの「小沢城」
小沢城(おざわじょう)は…残念ながら、まだ商品化されていません。みなさんは、どんな味のビールをお望みでしょうか。今日のイメージを持ち帰って、ぜひお店にリクエストしてくださいね。

No.4 二ヶ領用水

二ヶ領用水

二ヶ領用水二ヶ領用水
二ヶ領用水は、全長約32km。川崎市のほぼ全域を流れる神奈川県下で最も古い人口用水です。昔の多摩川は、たびたび大洪水を起こして流路を変え、田畑を荒らす荒れ川でした。1590(天正18)年の洪水をきっかけとして、徳川家康の命により、流域へ新たに農業用水を引き、水田を開発するために造られました。関ヶ原の戦いの3年前から測量が始められ、その2年後に開削工事にとりかかりました。完成したのは測量 開始から14年後の1611(慶長16)年です。

二ヶ領の「二」の意味は、川崎領と稲毛領の「二」つの「領」にまたがって流れたことに由来します。

二ヶ領用水の工事を指揮したのは、徳川家康の家臣である小泉次太夫という人です。次太夫は用水開発を家康に進言して、用水開削の用水奉行に任命されました。

今のように機械など全くない江戸時代、工事は困難を極めました。当時の用水堀りは、すべて人の力で行われることから、多数の農民が動員され、時には女性も駆り出されたということです。流路はできるだけ自然条件に逆らわず、古い流路や蛇行の後を利用し、夜になるとかがり火をたいて用水の工程を図るなど多くの苦労と苦心が払われました。二ヶ領用水は、農作業の合間に、こうした作業を10数年も続けた農民たちの労苦のたまものといえます。

二ヶ領用水は多摩川に2カ所の堰を設けて取水しました。ひとつは上河原堰、もうひとつは宿河原堰です。この二つの堰で取り入れた用水路は、JR南武線久地駅近くで合流し、今の川崎市域のほぼ全域に枝分かれして流れました。

用水開削により、周辺の60ヶ村、約2,000haの地域が農村地帯として発展しました。 この用水を用いて栽培された米は3代将軍家光が鷹狩りに来たときに賞味し、以来将軍家の御飯料になりました。のちに稲毛米と呼ばれ、江戸ですし飯として大人気だったそうです。また、この用水が周辺農民の唯一の水源だったということもあり、激しい水争いが絶えませんでした。

桜の名所二ヶ領用水桜の名所としても親しまれている明治以降は、横浜水道や工業用水として利用されるようになりましたが、都市化の進展や河岸改修により、現在は多摩川大橋に近い平間浄水場の横までしか残っておらず、また流路も大幅に変わってしまいましたが、春には桜が咲き誇り、冬にはマガモが飛来する、川崎市民憩いの場として、往時の姿を今にとどめています。


Moonlightの「二ヶ領」
二ケ領(にかりょう)は、赤味がかった色にスパイシーなホップを使用、心地よい香りが感じられる Mild ale (マイルドエイル)です。